日本を代表する名俳優の一人である渡哲也さん。1941年(昭和16年)12月28日 生まれ、島根県のご出身です。大学は青山学院大学経済学部を卒業していて、大学卒業後の1964年に日活に入社しています。そして、日活ニューアクション時代のスターとなりましたが、1971年に日活を退社。その後、石原プロモーションに入社しました。
1987年に石原裕次郎さんが亡くなると、渡哲也さんは石原プロ2代目社長を引き継ぎ、2011年まで務めました。渡哲也さんは、「反逆の報酬」(1973年・東宝)、「男たちの大和/YAMATO」(2005年、東映)などに出演していて、「誘拐」(1997年・東宝)では日本アカデミー賞・優秀主演男優賞を受賞。他の作品でもブルーリボン賞・助演男優賞など様々な賞を受賞しています。
大活躍していた渡哲也さんは2020年8月10日に肺炎で亡くなっていたことが所属事務所より明かされました。享年79歳でした。今回は日本の大スターだった渡哲也さんの子供や就職先について、子供は何人いて、画像はあるのか、さらには結婚はしているのか、女優の吉永小百合さんとの関係についてなど、検証していきたいと思います。
渡哲也の子供(息子)はどんな人?
渡哲也さんには息子さんが一人いらっしゃいます。芸能関係の方ではなく、一般の方ということで、情報が少なく、お名前や生年月日など詳細は判明していません。ただ、大学については、両親と同じ、青山学院大学に入学したそうです。大学卒業後は芸能界を目指すことはなく、大手ゼネコンに就職したという噂があり、のちほど詳しくみていきたいと思います。
渡さんの友人の話によると、渡さんは息子さんのことを大事に育て、一般人として生きる選択をした息子さんに迷惑はかけないと、息子さんの情報はこれまで全くというほど明かさなかった、ということでした。男らしい渡哲也さんっぽい信念が感じられますね。
渡哲也の子供(息子)の画像は?
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画像も調べてみましたが、奥様と同様に一般人ためか、残念ながら、顔画像の公開はなく、家族写真などもありませんでした。上の画像は若かりし日の渡哲也さんで、息子さんも似てらっしゃったらこのような感じなのかもしれませんね( ^∀^)
渡哲也の子供(息子)はゼネコンの鹿島建設?
渡哲也さんの息子さんは大手ゼネコンの「鹿島建設」に就職していると噂があります。渡さんの息子さんは、長い間一人暮らしをしていたようですが、体調を崩していた渡さんの病状を心配して、2014年頃には、渡さんの家から歩いて2分ほどの場所にある一戸建てにお引っ越しをされたそうです。
渡さんは、同年、自宅をバリアフリーに全面リフォームしているのですが、その際、渡さんの息子さんがリフォームを取り仕切られていたそうです。渡さんの息子さんがゼネコン勤務ということは事実なのかもしれませんね。
リフォーム中、渡さんは、息子さんが住んでいる一戸建ての家で、息子さんと一緒に暮らしていました。リフォームの工事が終わり、渡さんは自宅に戻ったそうですが、仮住まいしていた息子さんの一戸建ての家は建て替えを行い、そのまま息子さんが住まれているそうです。
このお話からも分かる通り、とても親孝行の息子さんだったようですね。息子さんの支えがあったからこそ、渡さんはきっと苦しかったであろう、闘病生活を頑張ることができたのではないでしょうか。
渡哲也の子供(息子)は何人?
すでに記述している通り、渡哲也さんには息子さんが一人のみで、他に子供さんはいらっしゃいません。息子さんの年齢は、40代半ばと思われます。
渡哲也の子供(息子)は結婚している?
渡さんの息子さんは、未だに結婚されていないそうです。渡さんは、早く奥さんをもらってほしいと、よく周囲にこぼしていたそうです。息子さんの結婚はもちろん、大事な一人息子の孫を早く見たいと言う気持ちもあったようですね。
渡哲也は吉永小百合と結婚していた?
渡哲也さんは、1966年に映画「愛と死の記録」で共演した女優の吉永小百合さんと、かつては、結婚前提で真剣交際をしていました。しかし、吉永小百合さんの両親に反対されていたそうです。当時吉永小百合さんのマネージャーを務めていた父親から、交際は良いが結婚は認めることができない言われ、同様に母親からも「もし結婚したら絶対に許さない」と猛反対されていたそう。
この両親の反対があり、渡さんと吉永さんは1969年に破局されたとのことでした。別れた後も良き友人、相談相手として親交は続いていたそうです。なんだか切ない話ですね。
渡哲也のお嫁さんはどんな人?
渡さんは、1971年、青山学院大学の同級生で、一般女性の俊子さんと結婚しました。お見合いなどではなく大恋愛があっての結婚だったそうです。プライベートの情報はあまりなく、詳細は分かりませんでした。奥さんのほうが1歳後輩にあたるそうです。
二人は学生のころから交際を続け、渡さんが芸能界に進んだ後も交際していましたが、一度破局しているそうです。当時、俊子さんの叔父は都内の病院の院長をしていたと言われています。どうやら、俊子さんは裕福な家庭で何不自由なく育ったお嬢様だったようです。破局の理由は分かりませんが、大事に育てた娘さんが、無名の役者と交際しているのが納得いかなかったのかもしれません。
俊子さんとの破局後、女優として活躍している吉永小百合さんと結婚も視野に交際するも破局。その後、俊子さんと復縁し、1971年に結婚しています。結婚後、渡さんと俊子さんは二人っきりでハワイにて結婚式を挙げると、翌年の1972年には、男の子が誕生しました。しかし長い結婚生活の中では、渡さんが病に倒れることが何度もあり、苦労した経験も少ないわけではない様です。
渡哲也の闘病
渡さんは、結婚した翌年の1972年、映画の撮影中に胸に痛みを感じ、息もできないほどの状態になってしまったそうです。この時は、過労のせいだろうと思い、撮影を無理に続けたそうです。しかしその後、高熱が出たため病院で検査を受けると、「肋膜炎」と診断されたとのことです。
渡さんは約2ヶ月で退院することができましたが、この時、妊娠中だった奥さんは、看病疲れもあったのか、予定日よりも早く男の子を出産しています。早く生まれてきた赤ちゃんは、とても危険な状態が続いたそうです。渡さんは、そんな赤ちゃんに会うため、毎日病院に来ていたそうです。
続いて、1974年、NHK大河「勝海舟」に主演中、高熱が続き降板しています。後に難病である膠原病と診断されていますが、急性肝機能不全などを起こし、入院は9カ月にも及びました。
1987年、渡さんが2代目社長として石原プロを継承しました。その4年後の50歳のときに大腸がん(直腸がん)を経験しています。早期発見ではありましたが、進行していて手術で人工肛門をつけていることを公表しました。渡さん自身は、ストーマ(人工肛門)をつける手術をそう簡単には受け入れがたく、涙が止まらなかったと手記で明かしています。
2015年、渡さんが急性心筋梗塞で緊急入院後、手術し、リハビリ中だということが6月17日の故石原裕次郎の二十九回忌法要の席で発表されました。そして、自宅療養していると舘ひろしさんが説明しました。
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石原裕次郎さんがなくなり、渡さんが石原プロモーションの二代目の社長になったときも、社長夫人として影から渡さんを支えたのは奥さんだと言われています。渡さんのサポートはもちろん、社長夫人として社員や所属俳優への気遣いを忘れず、評判が良かったそうです。
また渡さんが直腸がんで長い闘病生活を余儀なくされたときも渡さんを支えてきたのは奥さんの存在でした。奥さんの努力もあり、渡さんは直腸がんを無事に克服して、仕事に復帰できるようになり、復帰後は大河ドラマにも出演しています。時には渡さんを叱咤激励しながらも力強く支える俊子さんに対して、「妻にいじめられながらリハビリをしている」と、渡さんは笑いながら話していたそうです。素敵な夫婦ですね。
渡哲也さんのまとめ
渡さんは役者として大活躍する中、何度も大病と戦ってきたことがわかりました。きっと苦しいことも多かったと思いますが、奥さんや息子さんの手厚いサポートに支えられ何事も全力で頑張ることができたのではないでしょうか。家族だけでなく役者仲間やファンからも愛された渡さんはきっと愛に溢れた方だったのでしょう。
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